第15章 時間という名の解けない折り紙
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ノックアウトしたのに……
GP2タンパク質が一切存在しなくとも、マウスにはなんの不都合も発生しない
GP2が分泌顆粒膜の組織化に重大かつ必須の役割を果たしているという私たちの仮説は見事なまでに粉砕されてしまった
私たちはまず、自分たちの方法の瑕疵を疑った
DNAレベルで遺伝子のノックアウトは確かに行われており、GP2のメッセンジャーRNAは作り出されていなかった
不必要な荷物を抱え込んだ生物はそれだけ生存競争に不利なはずである
生物はできるだけ効率のよい仕組みが進化的に選択されてきたとする見方
盲腸や扁桃腺のように、切り取っても生命に別状がないものもあるが、全く無用なものとはいえず、特別な状況下は免疫器官としてそれなりの機能を果たしている
私たちもGP2の"特別な"役割を求めて、マウスを様々な状況下においてみた
しかし、いずれの状況下でも、とりたてて差異は見いだせなかった
狂牛病のプリオンタンパク質の場合
遺伝子をノックアウトしたにもかかわらず不都合は何も起こらない現象は、狂牛病におけるプリオンタンパク質でも見られる
プリオンタンパク質とは、脊椎動物の脳細胞に存在するタンパク質で、ちょうど膵臓のGP2と同じく、GPIアンカーという仕組みによって細胞膜につなぎとめられている
そして、これまたGP2と同じように、その機能は、さまざまな推測はあるもののよくわかっていない
ただひとつ判明している、牛が狂牛病にかかると脳内のプリオンタンパク質の立体構造が変化して、異常型になるということ
異常型プリオンタンパク室は、変性の結果、凝集しやすくなり、多数の分子が絡み合って脳内に沈着する
これが進行すると脳細胞が傷害を受けて、起立不能、行動異常、昏睡などの狂牛病特有の病状が顕在化して最終的には不可避的に死に至る
それでは異常型ではない、正常型プリオンタンパク質は脳細胞でどのような機能を担っているのだろうか
そこで遺伝子ノックアウト実験が企図された
マウスにもプリオンタンパク質が存在し、狂牛病の牛の脳をマウスに投与するとマウスを「狂鼠病」にすることができる
マウスは狂牛病に感染し、この病気のモデルとなりうる
当初の予想は、プリオンタンパク質遺伝子をノックアウトしたマウスは、狂牛病にかかった牛と同じ症状を示すだろうというものだった
ところが、プリオンタンパク質をノックアウトしたマウスは正常に誕生し、成長後も健康そのもの、何の不具合も見つからなかった
ノックアウトマウスは短命になることもなく、寿命終盤になっても特別な神経症状を発することもなかった
不完全な遺伝子をノックインすると
そこで彼らは、次のような実験を企画した
このプリオンタンパク質ノックアウトマウスに、もう一度、正常なプリオンタンパク質遺伝子を戻してやったらどうなるか
もちろん、ノックアウトした遺伝子をそのまま元に戻せば、それは健常マウスと変わらぬものができるわけで何事も起こらないだろう
事実、実験結果はそうなった
ノックアウトマウスに部分的に不完全なプリオンタンパク質遺伝子を戻してみた
ここで用いられた"不完全な遺伝子"は、プリオンタンパク質の頭の部分から約3分の1を欠損した分子をコードするもの
制限酵素でDNA切断酵素と、リガーゼというDNA結合酵素を使う
遺伝子ノックイン実験
人工的に細工を施した遺伝子をもう一度、生物個体に戻す実験
不完全なプリオンタンパク質分子を与えられたマウスは、生まれてしばらくは何事もなかった
このマウスは次第におかしな行動を取るようになりはじめた
アタキシア
歩行の乱れ、台からの落下、身体の震え
運動をつかさどる脳の障害に起因する
やがてマウスは衰弱して死ぬ
不完全な形のプリオンタンパク質は、脳の仕組みを徐々に変調させていった
生命は機械ではない
プリオンタンパク質を完全に欠損したマウスは異常にならない
ジグソーピースはなければないで不都合はない
ところが、部分的な欠落をもつジグソーパズルは、マウスに致命的な異常をもたらしてしまった
これはテレビの回路を構成する素子に関しては言えない
普通はこの逆で、ピースの損傷は部分的であれば多少乱れつつも映るかもしれないが、ピース全体の欠損では画像は映らない
やはり、私たちには何か重大な錯誤と見落としがあったのだ
重大な錯誤とは、端的に言えば「生命とは何か」という基本的な問いかけに対する認識の浅はかさ
そして見落としていたことは「時間」という言葉
生命とは、テレビのような機械(メカニズム)ではない
このたとえ自体がまありにも大きな錯誤
遺伝子ノックアウト操作とは、基盤から素子を引き抜くような何かではない
様々な分子、すなわち生命現象をつかさどるミクロなジグソーピースは、ある特定の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される
そこでは新たに作り出したピースと、それまでに作り出されていたピースとの間に、形の相補性に基づいた相互作用が生まれる
その相互作用は常に離合と集散を繰り返しつつネットワークを広げ、動的な平衡状態を導き出す
一定の動的平衡状態が完成すると、そのことがシグナルとなって次の動的平衡状態へのステージが開始される
この途上の、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのピースが一種類、出現しなければどのような事態が起こるだろうか
動的な平衡状態は、その欠落をできるだけ埋めるようにその平衡点を移動し、調節を行おうとするだろう
そのような緩衝能が、動的平衡というシステムの本質だからである
平衡は、その要素に欠損があれば、それを閉じる方向に移動し、過剰があればそれを吸収する方向に移動する
酵素のようなピースの欠落によってある反応が進行しなければ、動的平衡は別の経路を開いて迂回反応を拡大するだろう
構造的なピースの欠損が、レンガ積みに穴を作るのであれば、似たような形状のピースを増産してその穴を埋めるようにするだろう
そのために生命現象にはあらかじめさまざまな重複と過剰が用意されている
類似の遺伝子が複数存在し、同じ生産物を得るために異なる反応系が存在する
ある遺伝子をノックアウトしたにもかかわらず、受精卵から始まって子マウスの出産にまでこぎつけることができたということは、すなわち動的な平衡が、その途上で、ピースの欠落を補完しつつ、分化・発生プログラムをなんとか最後まで折りたたみえたということ
リアクションの帰結、つまりリアクショニズムとして新たな平衡が生み出されたということ
動的平衡系の許容性
とはいえ、有るピースの欠落が決定的なダメージをもたらし、動的平衡系がその影響を最小限にしようとするものの、どうしても修復しきれないときには何が起こるだろうか
発生のプロセスは次のステージに進むことができず、このプロセスはその時点で死を迎える
つまり分化を進めていた細胞塊は、マウスの形をとりつつある、とある段階で停止してしまう
動的平衡がその歩みを停止したところに、エントロピーの法則は容赦なく襲いかかる
細胞塊は自己融解を起こし、まもなく母胎に吸収されて終りを迎えるだろう
つまり、このような致命的な遺伝子ノックアウト実験は、その結果が日の目を見ることはない
実際、過去試みられた遺伝子ノックアウト実験は、個体に何の異常も起こらないものが多々ある一方で、誕生を迎えないまま胚がその分化を止めてしまうような致死的なケースも多数あった
致死的なノックアウト実験が示すことは、その遺伝子が、発生上欠くことのできない重要なピースであることだけ
このような致命的な欠落ではなく、その欠落に対してバックアップやバイパスが可能な場合、動的平衡系は何とか埋め合わせをしてシステムを最適化する応答性と可変性を持っている
それが"動的な"平衡の特性でもある
これは生命現象が時に示す寛容さあるいは許容性といってもよい
ところが動的な平衡系にとってこの許容性が、逆に作用することがある
平衡系は、偶発的なピースの欠落に対してはやわらかくリアクションしうる
しかし、平衡系は人工的な紛い物までは予定していない
組織化の途中で6つある凸部のうち2つを欠いたピースが残りの4つの凸部を使って周囲のピースと結合すればどうなるだろうか
おそらく、その場所の平衡は成立したと捉えられ、組織化は次のステージへ進んでしまう
ところが凸部二つ分の空隙は開いたまま
生命はこのような部分的な操作に気づくのが得意ではない
分化プロセスが進行する間、ピースの隙間にできたわずかな空隙はどうなるだろうか
空隙の周囲にあるピースがすこしずつずれて、完全ではないにしろ空隙を最小にすることもできるかもしれない
しかし、時はもう遅い
周囲のピースはすでにそれ自体、他のピースとの間に相互作用を持ち、周りを取り囲まれている
だから、ある空隙を最小化しようとしてピースが不規則にずれれば、その動きは別の部位に新たな空隙を作り出してしまう
ひずみはさらに隣へと、時間的な経過が進めば進むほど、より大きな全体へと波及していく
わずかな空隙から始まったひずみはネットワーク全体に広がり、やがて平衡に回復不能な致命傷を与えうることになる
ドミナント・ネガティブ現象
タンパク質分子の部分的な欠落や局所的な改変のほうが、分子全体の欠落よりも、より優位に害作用(ドミナント・ネガティブ)を与える
部分的に改変されたパズルのピースを故意に導入すると、ピースが完全に存在しないとき以上に大きな影響が生命にもたらされる
ドミナント・ネガティブは、分子生物学の現場でも広く知られるようになってきた生命という系固有の現象
マウスに致命的なアタキシア症状をもたらすことになった、頭3分の1を失った不完全なプリオンタンパク質が引き起こしたことは、おそらくドミナント・ネガティブ現象だったのである
正常なプリオンタンパク質は、その頭3分の1を使ってタンパク質Xと相互作用を行っている
そして残りの胴体3分の2を使って別のタンパク質Yと相互作用を果たす
つまり、プリオンタンパク質の機能は、神経細胞の膜上でタンパク質Xとタンパク質Yをつなぎ合わせることにある
このとき、神経活動に伴う情報伝達が、X→プリオンタンパク質→Yと流れる
情報伝達経路が形成される、発生途上の一時期、もしプリオンタンパク質が全く存在しないのであれば、XとYの連鎖が成立しないことになる
タンパク質Yにパートナーが得られない分子的なこの孤立状況は、動的平衡系に対してSOS信号として働き、バックアップシステムの援用を求めることになる
そして平衡系は、適応的リアクションとしてXとYとの間を紡ぎうる何らかのバイパス経路、たとえばX→A→B→C→Yといった大体的な仕組みを立ち上げることになる
プリオンタンパク質ノックアウトマウスはそのようなバックアップの帰結として健康体として生まれた
ところが頭3分の1を失ったプリオンタンパク質は、タンパク質Xとは結合できないにもかかわらず、中途半端なことに、タンパク質Yとは完璧に結合しうる
そのことによってYは、擬似的にパートナー分子が存在する状況を与えられることになる
バックアップが作動するようなSOSは発せられない
やがてマウスは誕生し、未知の環境と遭遇する
脳の神経活動はどんどん盛んになり新しいシナプスが形成されていく
おそらくタンパク質Xからタンパク質Yへの情報伝達はこのような脳の発達と関係して必要とされる機能なのだろう
その齟齬は徐々に現れることになる
解くことができない折り紙
遺伝子をノックアウトしたこと、あるいはノックインしたことによって引き起こされるすべてのこともまた時間の関数として起こっている
ノックアウトされたピースは、完成された全体から引き抜かれたわけではない
時間にそって分岐し、そしてまた組み上げられていくある瞬間に、たまたま作り出されなかったのである
ノックインされた不完全なピースもまた、時間軸のある地点で、出現し、その後の相互作用の内部に組み込まれていったもの
遺伝子としてのタンパク質が織りなすネットワークは、形の相補性として紡ぎ出されるから、それらは枝の分岐というよりは、角々をあわせて折りたたむ折り紙のようなものとたとえたほうがよいかもしれない
時間軸のある一点で、作り出されるはずのピースが作り出されず、その結果、形の相補性が成立しなければ、折り紙はそこで折りたたまれるのを避け、すこしだけずらした線で折り目をつけて次の形を求めていく
できたものは予定とは異なるものの、全体としてバランスを保った平衡状態をもたらす
もしある時点で、形の相補性が成立しないことに気づかずに、折りたたまれてしまった折り紙があるとすれば、その折り目の歪みはやがて全体の形までをも不安定なものにしうる
機械には時間がない
原理的にはどの部品からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる
そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない
機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない
生物には時間がある
その内部には常に不可逆な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある
GP2は無用の長物ではない
GP2には細胞膜に対する重要な役割が課せられている
ここに今見えていることは、生命という動的平衡が、GP2の欠落を、ある時点以降、見事に埋め合わせた結果なのだ
正常さは、欠落に対する様々な応答と適応の連鎖、つまりリアクションの帰趨によって作り出された別の平衡としてここにある
私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである
結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである